物事や出来事にはどうやら間というものがあるようだ。
間がいいとか悪いとか。
間がいい事がいいことなのか。ひねくれ者の私は間がいいことがどうも小賢しく
感じられることもある。
逆に間が悪いことが、どうも愛おしく感じられてしまうこともある。
実直までの間の悪さが、とても愉快で、かわいらしいものに思えてしまうのだ。


今日は妹が婚約者と栗拾いに行っている。
今晩は栗ご飯だね〜。なんて、家族で会話としていると、近所のおじさんから
電話がきて「今日栗拾いにいったもんで、沢山栗があるんですよ。これから届けに
行きます。」なんていう話を頂く。
もちろん喜んで「ウチには今なにがあったかしら?」なんてお礼の手みやげを探し
て、おじさんがいらっしゃる準備をする。


そういえば、向田邦子のエッセイにこんな話があった。
うろ覚えだけど、大体こんな話だった。
ある日、大きな海老を誰かからもらったそうだ。お台所に豪奢な箱に入った海老を
おいていたら、何人かの来客が。そのうちの1人が森光子さんだったそうな。
その森さんの手土産がなんと海老。しかもその海老は、どう見ても今お台所にある
海老よりも小さい。
今有るお台所にある海老が見られたら、気分を害されるであろう。と気をまわした
向田さんがそそくさとお台所に向かったら、海老が逃げ出して…。
なんていう話だった。
海老じゃなくて、栗というところが、我ながら、自分のコモノ感が出ているな。と、
感心してしまう。(笑)


話は戻って、先日は、彼氏と深夜駅で待ち合わせしていた時、彼氏が乗っているはずの電車に
飛び乗り、走り出した電車からホームを見ると、彼氏が階段から走って来ている姿を
見つけた。待ち合わせに遅れていた彼氏にプンプンしていたのだが、なんだかその姿を
見ていたら柔らかな気分になり、怒っていた自分を含め、なんだか可笑しくなってきて
しまい「ははっ。」と1人笑って、周囲に変な目で見られて恥ずかしい思いをした。


その他にも、上司に「ウマイ店がある」と誘われて行った店に、翌週、「おいしい店があるんだ」
と友人に誘われて行った店が同じ店だったり、
同じように、友人に誕生祝いに連れて行ってもらったお店に、翌週、別の友人に同じ店でお誕生日
のお祝いをしてもらったり。そんなことは多々ある。
ここまで来ると、私自身の間の悪さが一番神がかっているのかもしれない。と思う。


それにしても予想もしない、その絶妙な間の悪さが、なんとも可笑しく、なんとも愛おしい。
ナチュラルなその人の仕草が、どうも気持ちに入り込んで来る。
間が悪い…なんとも私には悪い事には思えないのです。